東北本線 荒川橋梁 ~闇荷役場と化した河川敷は東京一の米どころに~

8月15日 終戦の日。  戦中、戦後の出来事を綴ります。

▼三複線化された国鉄時代の「東北本線 荒川橋梁」の眺め
 
 (赤羽方から川口方面を望む)
東北本線_荒川橋梁_国鉄時代
▲この河川敷は 過去に東京都で一番お米がとれた地でした・・

「とれた」は、収穫ではなく「取れた、盗れた」という事実。

太平洋戦争中から戦後にかけて、生活必需品は、日本政府の
統制下に置かれ「お米」も政府から配給を受けていました。

→いわゆる「配給米」と 呼ばれたもの
N_荷役_配給米
しかし配給米だけではとても足らず、都市部の人々は郊外や
地方に
買い出しに出かけ、農家から直接お金で購入したり、
着物などとの物々交換によって、お米などの農産物を手に入
れていたのでした。

→農家から直接入手したお米は「闇米」と呼ばれました
N_農家_田んぼ
ただ「闇米」を得ることは、法律違反なので警察側もこれを
見過ごす訳にはいかず、走行中の列車内で乗客1人1人の荷物
検査を行ったり、列車自体を包囲して一斉取り締まりを実施
するなどして、せっかく苦労して得た闇米は没収されました。
N_闇米没収の図
東北本線では「赤羽駅」でも臨検があったことから、なんと
か東京都の入口までバレずに持ち込めたお米が没収されて

まう前に、走行中の列車から「闇米」を荒川橋梁上で河川敷
に投げる行為も始まり、それを「仲間が受け取る」あるいは
後から「取りに行く」という場面が生まれ、荒川橋梁の河川
敷は「闇の荷役場」と化したのでした。

▼複々線だった時代 の 東北本線 荒川橋梁 の 記録
   (出典:日活映画「キューポラのある街」の ワンシーンから)
日活映画_キューポラのある街
▲まだ プレートガーダー だった時代の様子がよく判ります
 これなら列車から河川敷に投げ落とすには好都合ですね

「闇米」の所持は「悪」で、常犯者は罰金も取られていたよ
うですが、更なる「悪人」というのが、いつの時代にもいる
もので、河川敷に投下される食糧を狙って、我先にと「盗り
に行く」輩が待ち伏せする事態を招くことに・・。物が物だ
けに、盗られた側も被害届を出す訳にもいかず、泣き寝入り
するしかありませんでした。

▼東北本線 新河岸川橋梁(赤羽方にある荒川橋梁手前の橋)
EF58荷_東北上
▲ここでも橋の両端で食糧が投下されました(右手が赤羽)


そんなことで「東京で一番お米がとれる場所は何処だ?」と
言う問いの答えが、いろいろな意味で「赤羽だ」という時代
がありました。


          *  *  *

政府統制が解けた後も、長年、生産者が小売業を行ってはな
らない(→農協などを経由させなければならない)と
いう決
まりごとがあったため、卸業者と小売業者を通さずに
流通す
るお米は、やはり「闇米」と呼ばれ続けておりました。
N_農協倉庫
そんなことで、ほんの数十年前までは、お米を手土産として
持ち歩くことや、荷物として送ることは、よく思われてお
ず、当事者も"罪悪感"がつきまとう感覚が続いていました。

食糧法の改正で今では全く問題ありませんが、お米を生産す
る農家さんから、親族や知人等にお米を送る時、荷物の荷札
に書く「品名」欄には「米」とは書かずに「イモ」や「果物」
などと偽って、荷物を送っていた時代があったのでした。
N_日本通運
運送業者さんも、秋の収穫時期になると、流石にこの偽りは
判ってはいたものの、荷札の品名には見合わない「妙に重た
い荷物」を暗黙の了解の中、淡々と配達して頂いたのでした。

「ごめんください、重~いお芋を、お届けにまいりました・・」
「は~い、いつも重たい荷物、お世話さまでございます・・」
実際に交わした、こんな対話が思い出されます・・。


          *  *  *


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東北本線 荒川橋梁 ~闇荷役場と化した河川敷は東京一の米どころに~
おわり